あなたのナイフを捨てること#1|特殊美術批評 西原珉

カーナビは使わず辿り着く

 その施設はサン・ゲイブリエル山脈の裾野に広がる住宅街の奥にある。初めてそこを訪れる日は、CDC1の地下駐車場を同時に出発して、上司のエイプリルの古ぼけた水色の車についていった。住所は教えてもらえない。
買ったばかりの私のトヨタには最新のカーナビが着いているけれど、カーナビに建物がある地点を一時登録することも許されない。エイプリルはゆっくり車を走らせ、1ブロックごとに私が目の届く範囲についてきているかどうか確かめるために手を振った。そのたび、私も軽く手を振って答える。エイプリルもそうやって、上司だったカズヨさんから、そこに行く道のりを教えてもらったのだ。
 貨物線を越え、メキシコ人街(言うまでもないが、この辺りはそんなこと言われるまでもなくはじめから彼らの街だ)を掠め、4つに分岐している道の一つを選び、ヘアピンのようなカーブを曲がる―――建物への道のりは思ったよりも複雑だった。いちどエイプリルの車を見失い、そうなった場合に備えて何も打ち合わせしていないことに気がつくが、彼女は見失うなんてことを想定すらしていないに違いない。ほらね、道を曲がった少し先に、ハザードを出して待ってくれている水色の車がある。
 ドーナツ屋やナイトラウンジやタコススタンドがある最後の大通りからまっすぐに山に向かって伸びる道は、やがて大きな鉄製の門がある広大な土地のエントランスに突き当たる。そこを右折。道が山の麓をめぐる緩やかな曲線となり、急な勾配にさしかかる少し手前、母屋とゲストハウスがある一見普通の家が、私たちが働くDVシェルターだ。
 私はいつも裏手のコンクリートの駐車場ではなく少し坂になっている建物の正門前の道に車を停めた。そこで車を降りると、大きく枝を伸ばした樫の木の林を渡る風の音と、鳥の鳴き声が聞こえる。蜂の羽音も。建物の敷地からは、滑り台のあるラバーグラウンドで遊ぶ子供たちの声がする。夏が近づいている。もう6時になるけれど、まだ全然明るい。エレメンタリーの子供たちはもう宿題が終わって、シェルターの一室で遊んでいる頃だろう。

シェルターと家族

 実際のところ、私たちはその場所をシェルターと呼ぶ代わりに思い思いの愛称やイニシャルで呼んでいた。名前を呼んではいけない人みたいに。シェルターのメインの建物は、1階がオフィスとランドリーになっていて2階に3つの居住ユニットがある。一番大きいユニットは、先日、規則違反が重なって退去処分となり空室のままだ。そこに住んでいた母親は、当てつけに料理途中の鍋を残していったので、ロサンゼルスの暑さに晒されたキッチンつきのその部屋は発見されたときにはひどい有様であった。「鍋はどろどろで何の料理かも分からない状態だったから、泣きながら捨てたわ。やばかった。ここには永久にバイオハザードの黄色いテープを張りたい」と住み込みの管理人が言う。彼女は夫とともに、1階のユニットの1つに住んでいて、毎日門限チェックをしつつ、厳格な寮母のようにシェルターの住人を見守ってくれている。
 敷地内にはあと3つの建物があって、1つは独立した一軒家。その家はたいてい子供が多めの家族にあてがわれた。もう一つの家はクラブハウスのようなつくりになっている。ウッドデッキがついた大きな部屋は共用で、調律の怪しいピアノ、棚に並べられたおもちゃ、古ぼけた絵本や篤志家に寄付してもらった画材で子供たちが遊ぶ。キッチンや暖炉もあった。ハロウィン、サンクスギビング、クリスマスが立て続けにやって来る年末の3ヶ月には、その都度、ボランティアを募って精一杯に飾り付けをし、七面鳥やチキンやローストビーフを支度して、そのなかでシェルターに暮らす家族全員とソーシャルワーカーとボランティアで集まって食べた。
 シェルターに住んでいるのは、配偶者やパートナーからの暴力から逃れてやってきた女性、そしてその子供たち。 中国、韓国、日本、フィリピン、タイ、ベトナム、中南米、キューバ、それぞれに出身地もこれまでの経験も子供の数も違う。言語も、ふだんの食ベものも、抱えている問題も。母親のほうはほぼ例外なく合衆国生まれではなく、適切な書類を持っていないために強制送還のリスクがある者もいる。母親は英語が不得手で会話に自信が持てないでいることも多いが、その子供たちは学校に通い始めるとたちまちアメリカンアクセントの英語を話すようになる。そして、私と母親の外国アクセントの英会話をからかう。私たちのアクセントを笑いながら繰り返したり、外国人(つまり、我々)には発音しにくい単語を言わせたり。からかわれること自体はうれしくはないが、それは彼らがアメリカに根を下ろし始めたサインなので、そんなに悪い気はしない。
非暴力は私から始まる

3年ほど前、DVシェルターというところに初めて行ったときは、前任者のマルコから住所の代わりに場所のヒントが書いてある黄色の紙切れを渡された。「シェルターの在処はこの世で一番秘密にしなければならないことの1つ」と彼は断言した。同じ紙片を渡されたもうひとりのインターンのジェシカが、不適切な言葉を呟きながら舌打ちするのが聞こえた。
紙切れにはこう書いてあった。「フリーウェイが交わるところ、○○公園、ヨガの施設が私立の高校と出会う地点から300フィート」
マルコのクイズを解いてシェルターに到着したのは私のほうがわずかに先だった。外扉の頑丈な鍵と格闘していると、ジェシカが天を仰いで疲れ果てた態で登場した。ジェシカは私の上着のポケットにあった紙片を見つけると自分のものと重ねて細かく手でちぎり、少し離れたゴミ箱に放りこんだ。そしてポーズをとって言った。「記念すべき仕事のスタート!」。
そう、この日は私たちがDVシェルターで直接暴力に立ち向かう最初の日。
この日のジェシカは青いTシャツを着ていて、その前面にはこうプリントされている――――NO VIOLENCE BEGINS WITH ME(非暴力は私から始まる)。内扉の向こうでは、私たちの到着に気づいた子どもたちがシャボン玉や三輪車や、思い思いのおもちゃを見せようと集まってきて、こちらを見つめている。あの子たちになんて言って話しかけよう?

親切と麻婆豆腐

今のシェルターでは、毎週月曜日と水曜日、エイプリルとAMFT2の私と、他のサービスセンターから来ているASW3のアンジェラ、大学院で勉強中のボランティアのKがやってきて、母親グループへのセラピーや、子供たちとのアクティビティ、ケースマネージメントを行った。全身にタトゥーのあるCDCの同僚で、AMFTのMさんも来てくれる。Yさんの華やかな鯉のタトゥーは子供たちに人気がある。
カウンセリングやアクティビティの他にも、子供たちの通う小学校の手配、小中学校の先生との面談、DV法に基づく接見禁止命令の取得や、滞在資格の申請、それに伴う弁護士との連携、補助金の申請、資格取得に向けた就労支援プログラムの申請、トラウマの治療、精神科医との連絡、個々のケースについての話し合い、私たちがやることは無数にあった。10年以上このシェルターに関わっているエイプリルの指示のもと、手分けしてそれらに取り組み、20時になったらクライエントとその日のまとめをし、集会室を片付けて各々の車で帰る。帰宅時はたいてい疲れているのでミーティングはしないのだが、受け持ちの家族に問題が起きたときは、途中のパンダ・エキスプレス4で落ち合って、話し合うこともあった。
 エイプリルは香港からカナダ経由でアメリカに来たベテラン。アンジェラは大学院を終えたばかりの上海からの留学生。私は東京出身でアメリカに来てから臨床心理を志したエイプリルよりも年上の新人。という3人なので、パンダ・エキスプレスのアメリカナイズされた中華料理は、誰からもちょうど等距離にあるクオリアとしての中華料理の役をうまく果たしている。エイリルはスープ、アンジェラは炒麺、私は麻婆豆腐をいつも買う。

 ロサンゼルスに引っ越してきてすぐ、子供が同じ小学校に通う香港人ママが近づいてきた。軽く自己紹介を終えると、彼女は言った。
「日本から来たのね。ハズバンドの仕事は?」
「アーティストです。彫刻とかを」
そう答えると、彼女は自分の乗ってきたワンボックスカーに私と子供たちを押し込んで、中国系移民が多く住むサン・ゲイブリエルへと車を走らせ、あるレストランの前で停めた。
「これからここでご飯を買いなさい。ご飯にスープにおかずが三品ついて3ドル99よ。安いわ」そして麻婆豆腐と青菜と青椒肉絲が入った弁当を3つ、今日のディナーに、と私に買ってくれた。帰り道には、街角で苺を売っていたメキシカンの少年を呼び止めて信号待ちの間中、ぎりぎりまで交渉を行い、5パック買って1パックを私に寄越した。車の中はお持ち帰りの中華料理と苺の匂いでいっぱいになった。
「がんばって。何かあったら声かけて」
別れ際、彼女がそう言ったときに初めて「日本からやってきたばかりのアーティスト一家で生活が大変だろう」と心配してくれたんだな、と気がついた。夫婦に子供が2人いる家庭の「貧困ライン」が4万ドル台半ばだということをそのときはまだ知らなかったが、その基準に従えば渡米当時の我が家は確実に貧困層であったのだ。

 だが、いずれにせよ。ロサンゼルスのような都市では移民、貧困、ホームレス、銃と暴力、それらが自分の数ミリ隣にある問題だと気づくのに時間はかからない。
 また、ときどき、いや頻繁に。移民と移民のあいだには、余計な混ざり物のない親切の交換が見えるときがある。それは、シェルターの住人のあいだにも。そして、私がいつも麻婆豆腐を食べるのは親切の匂いがするからだ。

マリアとインカの話

 マリアは7〜8年前に、当時3歳の娘を連れてペルーから密入国してきた。アメリカで結婚し、その男性との間に生まれた男の子とともに2年前からシェルターに暮らしている。娘はスペイン語と同じように英語を話すが、マリアと男の子はほぼスペイン語で会話する。
 今日はマリアが英語を学ぶために通っているアダルトスクールで母国ペルーについての発表をする前に、その練習台を務める日。マリアはきれいに作られた資料を見せつつ、はにかみながら故郷の歴史を遙か昔に遡って説明する。
「インカ帝国には文字はありませんでしたが、結縄の文化がありました。それはキープと呼ばれています。結び方や結び目の間隔、ねじり方を変えて、実に様々な数字を表すことができたのでです。キープは主に役人たちが記録に使っていました……」
資料にあるキープのイラストも、パラカスの織物の絵もマリアが描いたもの。彼女は器用でユーモアがあって聡明で、教育を受ければ能力を発揮するだろう。でも夫に殺されかけた過去と彼女を切り離すことはまだできない。マリアはペルー時代のこと、夫のことはほとんど話さないが、身動きできないくらいの深い痛みが彼女を取り巻いていることにはきっと多くの人が気がつく。心理的外傷とは良く名付けたもので、身体的な傷が癒えたあとでも見えない傷がその人の一部になってしまっていることの難しさに、どうしようもなくやりきれない気持ちになる。

 シェルターからの帰り道、夏の夜はまだ少し明るくて、気持ちが少し沈んでいるからか、信号や他の車のテールライトがつるつるした透明な光となって目に映る。いつものランプからフリーウェイに乗る。お化けのように大きい椰子の木の影の向こうに、トンネルが現れ、そのちょうど頭上にあたる位置にいつのまにか誰かが設置した「PERSIST」のサインが見える。そのトンネルにさしかかるたびに、七文字のサインに励まされる。やれることは少ない。でも、きっとまだできることがある。

*1 Community Development Centerの略
*2 大学院を終えた免許取得前の心理セラピスト
*3 大学院を終えた免許取得前のソーシャルワーカー
*4 有名なカリフォルニア州の中華料理のファーストフードチェーン

この文章は、岩瀬海、中島伽耶子、櫻井莉菜の三人の展覧会「例えば(天気の話をするように痛みについて話せれば)」(2022年4月29日〜7月3日 秋田公立美術大学ギャラリーBIYONG POINT)の展評として書かれ、SUMMER2022のために加筆・改稿したものです。
なお、 登場人物・できごとは実在の人物・現実のできごととは異なっています。

目次