SUMMER2022の前に
長谷川: アーティストの曽根裕が、ロシアによるウクライナ侵攻やコロナ禍において、アーティスト同士や、市民の人たちそれぞれが繋がる場をアートとして作った方がいいんじゃないか、と思いたち、SUMMER2022のプロジェクトが始まりました。反戦、反暴力を、人々や作品が集まることから示していこうというものです。
秋田は日本海に面していて、ロシアともとても近い。明治以前は、北海道のアイヌの方や中国大陸の方と交易で自由にやりとりをしていたわけで、地図の見る向きを変えるだけでも、地政学的に重要な場所であることがわかります。ペパーランド[1974年から続く岡山のライブハウス]がずっとやってきたみたいに、各地で勝手に濃い連携がなされてるみたいなのがすごい良いなと感じているんです。珉さんはどういう手応えとか気持ちで、今回やろうかなと思っておられますか?
西原: 私はずっとセラピーカウンセリングの仕事で、人と対することが多いんですけれども、今年は明らかにみんなの気持ちがすごく不安定になっています。自分の周囲の不安が強まったひとつには、トランプ大統領以来のアメリカ国内でのものすごい分断がある。もちろん常にそういうのはあったけれども、どうしようもなくなってきてる手応えがあって。しかも国会襲撃がありましたよね。ドメスティックバイオレンスのシェルターをやっているとちっちゃな暴力の延長上の暴力だと感じるんですよ。ウクライナのことも、私にとっては全て繋がってる。暴力の連鎖みんなの心理状態が引き寄せられていく、あるいは影響を受けやすくなっている印象があって。自分にできることから何かしようというのと、そういうふうに感じている人たちと繋がりたい。今はいろんな意味での連帯がすごく重要だと思っているので、そういう意味での場所を作りたいと思ったことが一番大きいですかね。
起源に触れること
能勢: 怖いのは、歴史の問題です。プーチンはユーラシア主義と言ってるわけですよね。ユーラシア民族の復興をやるんだと。それは、ナチのゲルマン民族とあんまり変わらないです。歴史の見方がおかしい。100%純血のゲルマン人が存在するのかと言ったら、わからないと思いますよ。だから歴史の見方が、すごく狂ってるっていう。ヨーロッパは国境がずっと動いてる地域だから、フランスとドイツ国境も、微妙に動くじゃないですか。確かにウクライナも、ロシアの一部であった時期もある。そこへものすごい古い歴史主義みたいなものを結びつけていくと、何だってやれてしまうっていうか。
岡山の教え子たちが「Phenomena」という写真のグループを作っていて、『フトマニクシロ・ランドスケープ 建國の原像を問う』という写真集を刊行しました。それは大和朝廷が出来上がっていく原型的なものを写真で押さえていったんです。原風景みたいなものは撮れたから、今度はさらに遡ろうとしてて。日本の新しい年代記が出来上がるっていう計画で、年表まで作り上げている。ただ、そういう作業をやりながら、古い日本の原型の歴史を触ることが、プーチンのユーラシア主義みたいな狂気の源泉を見てるような気がするんですよ。ひとつ間違えればものすごい怖いことなんだっていう。
どのように表現を手渡すか
長谷川: SNSではなくガリ版や新聞を使ってみようとしてるんですが、そうすると、刷って「配る」とこまでやんなきゃいけないわけですよね。今だと電話やSNSで呼びかけるとかになるわけですけど。どういう、あるいはどれぐらい時間がかかってたものなんですか?例えば50年前、羽田空港に闘争のために集まるときに、具体的にどう動かれてたんですか?
能勢: どこへ何時何分に集会をやるから同じ声をあげる連中は集まってくれって。ガリ版を用意して鉄筆でガリガリガリガリ…って。それから、街頭でビラをまく。大学だったら学生会館とか。
長谷川: そこがとても大きい経験な気がするんですよね。アートに限らず、作るという営み自体はいつの時代もある。それを人に伝えるっていうところの違いが気になっています。街中で知らない人に配って無視され続けるとか、そういう瞬間が大事な時間であるような。SNSで投稿しても、あまり恥ずかしい思いをしないじゃないですか。街頭でビラをまくって時間もすごくかかるし。
能勢: そんなこと思ってたらなんもやれんよ。
長谷川: まあそうですよね。
西原: ビラを撒いてた世代として言わせてもらうと、恥ずかしさはなかったかな。むしろ誇りを持って配ってるみたいな。そこがコミュニケーションになっているところが大きくて。来ないなら何か起こさせてやるくらいのつもりで私の周りは配っていたと思うんですよね。
能勢: 本当そうだと思いますよ。サルトルがノーベル文学賞を辞退してまで街頭に出て、アジビラを配り始めるじゃないですか。そうしなきゃいけなくなった、そんな気持ちですよね。ヨーゼフ・ボイスが晩年はシュタイナーの黒板絵みたいなものを、書きながら、説明してる写真が残っていて。作家が市民の前で考え方や思ってることを伝えていくみたいなのを最終的なアートとしてやるわけですよ。ボイス自身が社会彫刻と呼んだんだけど、実際にアートいうのは社会を彫刻していくようなもんなんだっていう。ペパーランドは、音楽を通じて社会を彫刻していると思ってますからね。
配信と対面
西原: 今回はまさに直接の体当たりのコミュニケーションになる気がしています。ボイスの黒板にしても、自分の概念をその場で生成しながら書いてく身体性みたいなのもありますよね。その辺、今回どういうふうにやっていけるかなって、ちょっと思ってるんだけど。長谷川くんはどういうふうに考えてます?
長谷川: なんか展覧会やってると、広報面がどれだけデジタル化しようと、アーカイブがどれだけオンライン化しようと、やっぱりまず作品があるし、物理的な対象がある。マテリアルのもつ力が失われない限り大丈夫だとは思っています。頭で考えるだけではたどり着かないところに連れて行かれるのが物質の持つ力というか。今この話し合いもそうですけど、展覧会の前のいろんなやりとりみたいなものを展示で見せていった方がいいかは、考えてるところです。珉さん、何かアイディアありますか?
西原: いや、ないですね…。でもガリ版はアジビラじゃないけど、いろんなテキストが集まりましたというだけではなくて、訴えてるものにしたいなとは思ってる。だから街角に立つかどうかは別として、もっと能動的に配っていきたいなと。こっちからどんどんいらない人にも届けて。
長谷川: 何年か前に友人たちとやった批評誌『アーギュメンツ』っていうのがあるんですが、手売り限定でネットはもちろん、本屋でも買えない。すると会いに来てもらうしかないので、読者に会えるっていう。告知は僕も新宿とかにいるよってTwitterに書く。オンラインとオフラインの両方あるんですよね。手渡して相手の顔が見える、会話が発生するみたいなのはいいなって思うし。ただコロナで、その物理的なやりとりみたいなのがかなりできなくなって。今、第7波が終わろうかなとしてるぐらいだと思うんですけど、トークイベントもやり方が変わったなという気がするんですよね。どう戻せばいいのか。後日配信ありってすると全然人来ないっていう状況で。でも売り上げは上がってるんですよね。後日配信をお金払ってでも見る人はいっぱいいて成り立つんだけど、現場で聞いてくれる人は全然いないみたいになってて。これは何か違うんじゃないかみたいな違和感があるんですよね。
能勢: 僕はライブハウスを経営しているんだけど、コロナになった途端いち早く岡山県でも、配信を取り込んだ店ではあるんですよ。でも、2回目の配信やった時に、間違いだな思った。ライブはホールでやる発表会じゃない。お客さんの歓声と一緒にやってるバンドもフィードバックを受けて、熱を帯びてくるんですよ。つまり客席に集まってる人とプレイヤーが一緒に作るのがライブなんです。配信で演奏を見せるだけなら、娘がピアノ練習したから発表会に行って、みんな何も言わずに座ってじっと見て、ああいう感じ。だから、後日配信って極端に言うたら、8割大事なものが抜けてて、2割の報告を見てるようなぐらいのもんですね。ライブ配信取り組んでみて、別ものだなというのはすぐ感じました。
長谷川: 珉さん、授業とかも結構そんな感じしますよね。秋田美大はどうですか。
西原: オンラインでやるときは100何人とかが一斉に見るから、みんなあの顔とか出してないんですよね。授業で見渡しながらやってたら、もうちょっと話した方がいいのかなとか、ひょっとしてこの子たちに響いてるみたいなことがわかるんだけれど。そういうことが全くわからないままやるので、孤独感半端ないっていうか。地図がない感じですよね。言葉とか言ってること以外でいかにコミュニケーションしてるのかってことは毎回感じるし。そのやりとりがライブトークとか音楽の醍醐味だと思うんで。一説には完全には戻らないって言われてるじゃないですか。
長谷川: 何かそうですね。トークイベントとかそうで。行くっていうのより家で。それこそトークイベントって、ちゃんとした姿勢で相手を見て聞かなきゃいけないじゃないすか。
西原: そうそう、結構なコミットメントなんですよね。
長谷川: ラジオ感覚とか、極端な話、1.3倍速とかで聞いたりとかしてるから、それを戻すのに説得力が必要というか。現場で直接相対して話を聞きたい、質問をしたいって、思わせるぐらいのことをやっていかないといけないんだろうなっていうのは感じますね。