平和と呼ぶには遠く歴史にするには早く|インディペンデントキュレーター
居原田遥

 この歳になっても躊躇いなく大好きだと言える沖縄のロックバンド、MONGOL800による楽曲の歌詞の一節である。過去の戦争を歴史にするにはまだ早い。「戦争」という言葉が指す、日本社会が記憶している出来事は第二次世界大戦だが、あの戦争が作り出した悲劇を過去の記憶として位置づけ、そして歴史化するには、まだまだ解決していない現実がある。税金を払うことすら難しいのに、その税金が一端となり、使うかも分からず、さらには完成するかも分からない新しい軍事基地が建設されている。弔いたくもない奴の葬儀が、国税を使って開催される。「戦争反対」はもちろん重要なテーマだが、この「平和」と呼ぶには遠いはずなのに、「平和ボケ」しているクソみたいな社会に突きつけるべき主張は、腐るほどある。

 私にとっては、より身近に感じる「戦争」が、起きてしまった。2021年にミャンマーで起きた国軍によるクーデター以降、止まない不当な暴力に対し、いまなお多くの市民が抵抗を示しながら闘いを続けている。ミャンマー国軍による弾圧は厳しく、政治的発言や明らかな抵抗の意思主張は攻撃対象となり、拘束や逮捕は当然のように行われ、根も葉もない罪を言い渡され実刑を伴う刑事罰を受けることもあれば、時には拷問や死に至る暴力を受ける事態も少なくない。抗議活動を行い、政治運動に関わるということは、直接的に、その身を危険にさらすということ。活動家をはじめ、学者や芸術家など、いわば「見せしめ」となり得る著名人は、故郷を捨てて亡命している人も少なくはない。それでも「抵抗」を示し、抗議の声を上げる表現者たちが身を守る手段として、匿名や偽名を用い「名前を隠す」という方法をとる。ペンネームやネット上のアカウントによる投稿、画像やハッシュタグだけの拡散。抵抗を示し平和を願うリスクは大きいにもかかわらず、その声は溢れ続け、その総数を把握することが難しいほどである。 さらにそれらの声は、直接的な表現や具体的な文字・言葉としてではなく、「芸術」が活用されることも多い。フィクションの物語として作られたアニメーション、ドローイングを駆使した抽象的な映像表現、アイコニックで理解しやすいイラスト。芸術的表現は、抵抗の意思を示すために、身を守ることが出来る有効的な戦略なのだ。そしてそこで生まれる表現に、たとえそれが文化や歴史を知らない遠い国の政治を相手にしている者の意思だったとしても、どこか共感し、応援し、勇気づけられることだってある。その声を発するものが誰か分からなくても、あるいはその社会に対してなんら関係性がなく思い入れがなかったとしても、その地の言語すら理解出来なかったとしても、私の目に、耳には、彼/彼女の意志は届いている。

さて、この日本社会で、反戦や平和を願う言葉や意思を表現するのに、躊躇う理由はあるのだろうか。それらを阻害するもの、危険に晒すものはあるのだろうか。そんなものは微塵もない。声を上げること、主張をすることになんらかの戸惑いや必然性を求める必要はない。身の危険を感じることなく、自由な表現を行うことが出来る。こんな状況すらも、失ってしまうのかもしれないのだから。 反戦を、抗議を、腐った社会に対する抵抗を。躊躇うことなく、かたちに、声に、表現として突きつけ、残していこう。いつかこのクソみたいな社会を堂々と愛せる日が来るまで(そんな日は、自分が生きているうちはないかもしれないが)。その手段として「芸術」が活きる世界を、私は守りたい。

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